致道博物館(山形県鶴岡市)
致道博物館の沿革
鶴岡市は江戸時代に城下町として発達した町です。致道博物館は鶴ケ岡城(現在鶴岡公園)の三の丸にあたり、庄内藩の御用屋敷となっていた所です。
庄内藩は徳川四天王の一人酒井忠次を祖とし、三代忠勝が元和8年(1622)信州松代から14万石で移封となってから明治まで酒井氏が治めていました。
明治後も酒井氏は鶴岡にとどまり昭和25年(1950)郷土文化向上のため旧藩校致道館資料及び土地建物を寄附され、財団法人致道博物館として発足しました。
「致道」という名は庄内藩校「致道館」によるもので、その出典は中国の古典「論語」の一節「君子学んで以って其の道を致す」にあります。 パンフレットより
重要文化財旧西田川郡役所
創建年月日 明治14年5月
指定年月日 昭和44年12月18日
木造2階建、両翼1階建、玄関突出、中央搭屋、時計台付、桟瓦葺
棟高20M、建築面積264.99㎡
明治13年(1880)6月に当市の大工棟梁高橋兼吉、石井竹次郎が初代県令三島通庸の命によって着工し、翌14年5月に完成した建物である。同年秋、明治天皇東北御巡幸の折には行在所(御宿舎)にあてられた。
創建当初は市内馬場町(現在の消防署)に南向き偉容を誇っていたが、永く保存するため、昭和47年当館に移築復元したものである。(付属建物として議事堂、用務員室があった。)
この建物は明治開花期に外国の影響を受けた擬洋風建築で、外観は簡素ながら均整のとれた意匠を示している。上げ下げガラス窓、玄関柱は柱脚台と頸巻繰形でバランスをとり、軒先廻りの化粧陸垂木などはルネッサンス風で、また2階の釣り階段は鹿鳴館時代を偲ぶことができる興味深いものである。 現地案内板より
御隠殿
ここの土地は酒井氏入国当時(元和8年・1622)から藩の御用屋敷で、慶安年間(1648-1651)には3代酒井忠勝の次男忠俊の住居があった。
現存する建物は、幕末の文久3年(1863)11代忠発の時に藩主の隠居所(御隠殿)として建てられたもので江戸屋敷から移築したものと伝えられる。奥の座敷では「能」を演ずることが出来る様に、きれいな床板が張られ、床下には音響をよくするために大きな甕が並び据えられていたといわれる。
玄関と奥の座敷が当時の建物の一部で、大名屋敷の広壮な面影を偲ぶことができる。
旧渋谷家住宅(田麦俣多層民家)
創建年月日・文政5年(1822)
指定年月日・昭和44年12月18日
1重3階寄棟造、茅葺
桁行8間半(15.4M)梁間6間(10.9M)
東田川郡朝日村田麦俣は湯殿山麓の村落で、全国でも有数の豪雪地帯である。江戸時代には出羽三山参詣のための道者宿をしたり、強力や馬子をつとめて生活していたが、明治維新後、宗教集落的性格を失い、わずかの田畑を耕し、養蚕と炭焼を正業とするようになった。
この地方の代表的な当建物はそのため創建当初の寄棟造りの破風窓のある妻の部分を切り取り、養蚕場として十分な採光通風の窓(高はっぽう)としたので、現在のような美しい輪郭と反りをもった「かぶと造り」という独特な外観の民家ができ上がった。
この民家は部屋の天井を高くし、高窓を設けるなど雪国手法らしいがみられ、構造は上屋柱と下屋柱からなり、小屋はさす組、軒はせがい造りである。
近年の急激な生活様式の変化によって消滅寸前であったため、昭和40年当館に移築復元したものである。
現地案内板より
旧鶴岡警察署庁舎
創建年月日・明治17年11月
指定年月日・昭和31年12月28日
木造2階建て、両翼1階建、玄関突出、桟瓦葺
棟高19M、建築面積237.6㎡
この建物は旧西田川郡役所と同じ当市の大工棟梁高橋兼吉が設計し、市内馬場町(現在の物産館前)に、工費五千三百四十六円二十銭をもって明治17年起工、同年11月に完成した。
昭和32年鶴岡警察署移転に伴い、建築士会が中心になって当館に移築復元したもんである。
この建物は外部窓廻りなどにルネッサンス様式を模しているが、屋根の大棟、破風妻飾りなど在来様式をも巧みにとり入れ、明治初期の擬洋風建築として独特の形態をもっている。
初代県令三島通庸が明治新政府の威容を表すべく建築したといわれ、木造入母屋造りの堂々たる外観を示している。 現地案内板より
古民家に憧れを抱く坂本建設では、近代古民家「博士の家」での施工を行っています。













