旧吉野家住宅(東京都青梅市)
都指定有形文化財旧吉野家住宅
新町開拓と吉野家
広漢とした武蔵野の原野が、あいついで開拓されて、たくさんの新田村が誕生したのは江戸時代の中期であります。この新田開発の嚆矢となったのが新町村だったのです。
江戸時代初期の慶長16年(1611)に開発に着手し、元和2年(1616)にはほぼ区画割等が完了し、ぼつぼつと入村者が集まってきました。この開発の様子を書き記した「仁君開村記」等の文書が現在も残っていて、東京都指定有形文化財(古文書類)に指定されております。それによりますと、村の中央に幅4間(7.2m)の江戸街道(現・青梅街道)が東西に通り、屋敷割は1戸分間口9間(16.2m)として、南北におのおの33軒分を設定しております。日本66州にちなんで区画したものです。新田村落としては狭いこの間口は、農村としてばかりでなく、青梅宿に対抗して、ここに市場を開く計画があったからであります。さらに東西南北に走る7つの道も整備しています。そして新しい町を開く意味で「新町村」と名付けたのであります。いってみれば武蔵野における最初の都市計画であったともいえます。
この新町村の名主家は、開拓を始めた吉野織部之助から代々世襲明主として栄え、現在の吉野徳太郎に至ったものでありますが、当時、織部之助は2軒分の敷地を自分の屋敷地とし、慶長18年10月に掘った井戸とともに、村造りの様子がうかがえる貴重な歴史的景観であります。
江戸時代の開拓者・織部之助が建てた住宅は、規模も小さく極めて粗末なものであったと考えられますが、現存するこの建物は、整形6ツ間型で、オクにトコ・違い棚・附書院が完備し、デイからオクへ切目縁が内縁でめぐらされ、さらに玄関には式台がつけられており、これら一連の空間構成は民家におけるきわめて整った格式の高い接客空間となっていて、幕末期における上層クラスの民家の、完成された多室間取りの姿を十分に示しております。
昭和50年10月、当主吉野徳太郎氏は、この貴重な文化財を青梅市に寄贈されたものでありますが、東京都の認めるところとなり昭和51年6月、有形文化財として指定され、ついで52年10月に修理工事に着手し、53年12月に完成したのであります。
古民家に憧れを抱く坂本建設では、近代古民家「博士の家」での施工を行っています。











